私は20代に起業し、その後、3社の企業を35年間程、経営しています。しがない中小企業の経営者です。今回のテーマ「#ウェルビーイングのために」を、私なりの解釈で「中小企業の経営者は社員のウェルビーイングをどう実現していくべきか?」と捉えて、実体験をもとにした考えを記したいと思います。
これに尽きると考えています。では、実際にあった私の経験談を恥ずかしながら披露します。実話です。
1.かつて私が起こしてしまった”罪深い行為”
おおよそ25年前にあった出来事です。我社の月例営業会議でのこと。営業担当者12名が一人一人、月次の実績を発表していました。Aさんの番になりました。
「え~と、あの~」
「すみません」
「今月は目標に届きませんでした」
と、顔を下に向けたまま、たどたどしく報告したのです。
社長である私は間髪入れず、
「”すみません”で済んじゃうのか!」
「”今月は”じゃあないだろう、”今月も”だ!」
「未達成月はこれで何カ月連続だと思っている?」
「答えてみてくれ!」「チッ」
と、まさしく鬼の形相で釘を刺したのです。
営業会議が終わって、各人、業務日報を書いてから退社の時間となりましたが、Aさんだけ最後まで残っていました。直属の上司・B課長に業務日報を提出し帰宅したのですが、Aさんが帰るやいなや、B課長から私に内線が入りました。
「社長、ちょっといいですか?」
「Aさんのことで報告したいことが…」と。
B課長が社長室に入ってきました。その手にはAさんの業務日報が握られていました。すぐさま、私に書かれている内容を示してきたのです。そこには、このような言葉が記されていました。
「どうせ、俺なんかダメな人材ですよ」
「これ以上、迷惑をかけませんので」
と。
私はこの文言を目にした時、瞬時に血の気が引きました。それは、私の叱責が原因だとすぐに認識したからです。
「とんでもないことをしてしまったな!」
「言ってしまったことは今さら取り消せない」
そんな後悔の念に襲われました。
翌朝、案の定といいましょうか、私の不安は的中しました。AさんはB課長に辞表を出したのです。その時、本人はB課長に退職の理由をこのように言っていたそうです。
「会社のお荷物になっていることは分かっています」
「今後、この会社でやっていく自信がありません」
私は即座にAさんと面談しました。開口一番、Aさんが私に放った言葉に、私はしばし絶句してしまいました。私の人間としての未熟さ、そして、犯した罪の深さを痛感したからです。
Aさんは、
「社長は私に対して舌打ちしたでしょう。聞こえてましたよ!」
「みんなの前で、”チッ”と」
「あの舌打ちは、自分の存在価値が会社にとってまったくない」
「そう思わせるものでした」
「正直、働く気が失せました」
普段、あまり主張しないAさんが、この面談では朴とつではありましたが、この時ばかりと語気を強め訴えてきたのです。私には返す言葉がありませんでした。
私の言動はパワハラそのものです。そして、ウェルビーイングの定義からしますと、社員の「身体的、精神的、社会的に良好な状態」を社長自らが破壊したことになります。
私が不用意にした舌打ち、”チッ”のサウンドは、間違いなくAさんの全人格を瞬時に否定するに十分な行為でした。心身ともに苦痛を与え、職業までも奪った行為です。
その時のことは、心から反省しています。今でもこの時のことを鮮明に覚えていますし、思い出すたびに心の内では何度も、
「申し訳なかった」
「あまりにも至らなかった。人間として、社長として」
「二度と、不幸な社員を出さないようにするよ!」
と謝罪を繰り返してきました。
2.若くして経営者となった私の所業
正直、若くして社長の肩書を持った私は血気盛んな尖った経営者でした。その舌打ち行為、”チッ”はその様子を如実に物語っています。経営者としての力量に対しても過信があり、経営を舐めていました。はっきり言えば自分勝手な暴走行為をしていたように思います。
当時、どれほど暴走していたか?少なくともその”舌打ち事件”を起こすまでの私の所業は?
車の運転に例えてみますと、通常、自動車の運転ができるためには教習所に通いますが、私は通っていない。通っていないので当然、試験を受けて免許証を取得しているわけでもない。なのに一般道路をいきなり走り出していたのです。しかも猛スピードで。普通、教習所に通いますと、学科と技能を学びますがまったくしていない。正規の運転者となる手続きで言えば仮免から卒免、そして、本試験に臨み合格となって免許証が交付される。しかし、私はこの手続きを一切踏むことなく、いきなり高速道路まで我が物顔で暴走していたのです。
その結果・・・・、
ついには、人身事故になったこともありました。幸いにして死亡事故がなかっただけ救いです。しかし、人身事故に対しては、もともと償う意識がないので保険に加入してもいなければ、被害者の保護対策も全くしていませんでした。
ここで例えた運転手と正に同じようなことを、私は経営者として振る舞っていたのです。まさに無責任な粗野な経営者だったのです。
そのような経営者であった私は、数えきれない過ちを犯していました。具体的にどのような過ちを犯していたかを話しますと・・・。
(かつて私が犯した過ち)
「社長の自己主張のみを押し付け、社員のウェルビーイングをことごとく阻害していた」
数え切れないほど過ちによって、社員を”アンウェルビーイング”にしてきたその根底には、「利益至上主義」があったと思います。そして、経営者である私が人間的に未熟であったからだと思っています。
(反省後、改善した言動)
「社員の主体性を尊重することで、一人一人のウェルビーイングを醸成できるようにした」
経営者にとって、人心掌握術という能力はさほど必要ないように思います。本質的に求められるのは能力ではなく資質です。その資質とは「社員を大切に思う」人間性であり、「仕事は厳しく、人間的には優しく」とする人格を指すように思います。
もし、この資質が極端に欠けているとなれば、経営は殺伐としたものになるでしょう。社長は社員から信頼されるわけがなく、慕われるわけもない。あげくの果てには、打算的、刹那的な社員との関係を社長自らがつくっているだけ、といった何ともしがたい稚拙な経営になってしまう。
私自身がかつてそのような経営をしていましたら自信をもって言い切れます。「会社は人なり。人は社長の人格に始まり、社員の幸せに到達する」と。そして、真のウェルビーイング経営を実践していく上でも、大前提として”社長の人格”が問われると思います。「職場は一将の影」と言われるように、中小企業では特に社長の人格が職場を支配してしまいます。
3.やっと気づいた経営者にとって大切なもの
私は創業時の精神に「かっこよく全てを背負いたい」といった、ある種経営者としての美学がありましたが、実際、経営がスタートし数々の問題が芋づる式に発生すると、モグラ叩きのごとくその時々の現場の長をとがめたりしていました。しかし、とがめたところで解決にはほど遠く、結局のところ経営幹部との信頼関係が崩れ、ついには大事な人材を失うといったことも多々ありました。
このようなことを繰り返していたのですから経営者としての人望は皆無に近いものだったと言えます。そのことで経営幹部をはじめ、多くの社員のウェルビーイングを脅かし、場面によっては剥奪していたのです。少なくとも起業してから10年間ほどは。
経営者としての自らの人格を高めたいと誓ったのは、その舌打ち事件があってのことでしたが、実はその事件のあった1週間後の30代最後の誕生日の時でした。その日、どういうわけか3人の社員から誕生日のお花とカードをもらったのです。思いもよらないことでした。
そのメッセージには・・・、
「社長、いつもお世話になっております。ありがとうございます」
「これからも身体に気を付けて、私たちを引っ張っていって下さい」
といった趣旨のことが書かれていました。それまで私の誕生日に社員から祝してもらったことが一度もなかったので、驚きとともにありがたい気持ちが湧いてきました。
「社長を思う社員がいる」
しかし、
「社員を思う社長がいない」
やっと、
私は社長として”情けない存在”だと気付かされたのです。
その誓いの決心から毎月の給与袋に私の思いを記した手紙を入れることにしました。手紙の中身は経営者としての未熟さも吐露しながら将来に向けての考え、社員の人たちへの思いなどです。同時に、管理職を中心に毎月、人数を決めて順次面談をすることも決めました。社員の気持ちをできる限り受け止めたいと思ったからです。この2つの決め事は既に25年間継続して行っています。
4.私にとって”ウェルビーイング経営”とは?
少し古いデータで恐縮ですが、日本には約358万社の企業が存在していると言われています。そして、中小企業は99.7%の357万8176社。そこで働いている社員数は68.8%の約3220万人です。(中小企業基盤整備機構・平成28年調査)
いかに中小企業が多いか。また、そこで働く社員数も多い。何を意味しているか?それは、中小企業の存在が大きいことから、それらの企業の社長の在り方がとても重要であるということです。なぜなら、中小企業で働く人々は、ある意味、その会社に自身の人生の幸不幸を預けているからです。勿論、自己責任の部分はあるでしょう。しかし、経営責任は社長にあります。99.7%も占める中小企業の社長の一挙手一投足というものは重大だと言いたいのです。
また、中小企業はほとんどの場合、経営と資本が分離していません。つまり、大株主が社長であり、同族経営が大半。よって、オーナー経営が多く「社長の人格がそのまま会社の人格」となっている属人的なものです。言い換えると、中小企業の社長は”好き勝手何でもできる”ということになります。ということは社長の人格次第で社員のウェルビーイングは大きく影響を受けると言えます。いや、決定づけられると言えるかもしれません。
このように考えると、企業の経営者、特に中小企業の場合は、社長自身が襟を正し、まずは己の人格を高める努力が必要と考えます。(偉そうですみません、中小企業の社長にも人格者がたくさんいると思いますが。)
もし、中小企業の社長が社員から尊敬され、信頼されている存在となれば、それは「社員が幸せな状態で働くことができる」ということに繋がるように思います。社長の人格というものはそれほどに社員のウェルビーイングにとって密接不可分と言えます。
私が誕生日に誓いを立て決意したことは、「社員一人一人の幸せを実現するため、己の全身全霊をかけて経営をしよう」。そのために、「経営者として少しでも人格を高めよう」というものでした。当時、ウェルビーイングという言葉は聞いたことがありませんでしたが、この考えは、ウェルビーイング経営の理念の中核に据えるべき大切な指針と捉えています。
5.ウェルビーイング経営のための人望学
ここで、当時、誓いの言葉として掲げた文を紹介します。人格を高めたいと考えた私は”人望”と言葉を置き換え、『社長人望学 8カ条』(人望の陶冶)なるものを明文化しました。かれこれ25年前から社長室の壁に掲げているものです。
改めてよくよく読み込むと、自画自賛になりますが、これらの文面はまさしく今日の「ウェルビーイング経営の実践哲学」と言っても過言ではない、と思うのですがいかがでしょうか?
上記の8条の文面は、当時から掲げているものと全く変わっていませんが、タイトルだけ、あえて「ウェルビーイング経営のための社長人望学」としました。それは、ウェルビーイング経営に対する私の価値観と大きく重なるからです。
ここに明示しました人望学の内容は、私自身の人格の偏りを補うためのものでした。世の中の経営者には時に”神様”と呼ばれる人物が登場しますが、一般的にはそれぞれに個性があり、その個性は人格の良し悪しとなることも多いでしょう。つまり、人間はあくまでも必然的に未完成な存在なわけです。
しかし、経営者となれば責任をもって人を導く立場になります。その個性が社員にとって吉と出るか凶と出るか、賭けとなっていたのでは不運です。やはり、社長が社員を正しく導くには個性を超えて人格の厚みがなければならない。私が自作自演としている人望学8カ条は、社長が人格で人を導くための大事な資質の部分を書き出したものです。そして、結果として社員のウェルビーイングを実現させていくことになるものです。
外形的パフォーマンスから「ウェルビーイング経営をやるぞ!」などと気負う必要はありません。無理にして宣言しても続かないでしょう。所詮、それは社長の自己満足となってしまうことにもなりかねない。宣言自体に重きを置くのではなく、普段からの思いとして社員のウェルビーイングを大切にしていることです。「社長にとっての最高のウェルビーイングとは、社員が最高のウェルビーイングを体感できていること」です。
ただでさえ、日本の中小企業の70%程の会社は赤字経営です。拙速にウェルビーイング経営に取り組むのでなく、大企業をモデルとして多大な経営資源を投入することもなく、ステップ・バイ・ステップ、段階を経て実践していくことが賢明です。
その上で、それぞれの企業の成り立ち、在り方を尊び、自社ならではの文化を創り上げること、同時に、社員一人一人の思いに寄り添って自社独自の無理のない仕組みづくりを築いていくことが理想と考えます。なぜなら、今日、注目されているウェルビーイング経営とは「社員の健康や心理的な幸福感、仕事へのエンゲージメントを高めるための組織的な取り組み」と理解していますので・・・。
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